最近の水無瀬さんご先生・メモ

どーも、こんにちわー。ネットサーフィンしていて得た情報をメモがわりに貼りつけておきます。

http://k-tai.impress.co.jp/docs/readers/crash/20110630_456732.html
あら斬新できれいな壁紙・・・かとおもったら見たことのある名前。

http://min35.blog109.fc2.com/blog-date-20110705.html
さて、こっちは水無瀬さんごさん自身が、デビュー一周年を迎えてのエントリ。作家になった辛さと、作家としてやっていく意気込みが綴られています。印象に残ったのは、糸井重里さんの言葉を引用している箇所。

でも、できることなら読者さんにサービスしたい。おもしろいと思ってもらいたい。その心だけが、小説家というパンドラの箱を開けたときの、最後に残った一つの希望なのかもしれません。

表現をして生きていくということは、 きみを大好きなひとが横を走ってくれている ということであると同時に きみを大嫌いだという人も、 いっしょについてくることなんだ。 そっちを見ちゃだめだよ。ぜったいに
糸井重里 http://kasoken.tumblr.com/post/115239021

面白かったら面白かったと言うし、つまんなかったらつまんなかったと言う。これが読者である私の行動原理。こう書くと傲慢に感じるかもしれないけど、結局は俺様の好みにあう作品=俺様のジャスティス。「客観的なレビュー」なんてものをやろうとどんだけ努力しようとも、読者である以上は、どうしてもこれは譲れない。

それでも、こんなことをするために小説家の道に入ったのか? こんな原稿を書いて、許されるのか? 許されるとして、誰に許してもらうんだ? 誰かが許さない。第一に自分が許さない。第二に誰かが許さない。白い目で見られても、誰かに許されずとも、ひたすら書かなければならない、そういう仕事です。ありがたいことに、気づいたら原稿ができあがっている。失敗作か駄作か、あるいはもしかして、おもしろかったか、それは読者さんが判断するものです。本を出すというのはそういうことです。

作品の評価は最終的には読者に委ねられる。ただ、読者の評価と作家の評価が違うことあるんだなー、と。どうやら、「好き好き大好きお兄ちゃん」は、さんごさん的には、いまいち納得できない出来だったようですが、私は面白いなーと思いましたよ?

私はブログで自分の感想を書き散らしていますが、別に私の評価が読者の評価全体だなんて、そんなことはなく。見えていたら敵か味方かわかるけど、見えていないと怖い。悪いほう、悪いほうに想像してしまう。

でもね。世の中には、図書館の隅っこで、あるいは本屋の隅っこで、ふと手にとった本が面白くて家に帰るまで読みきってしまって。でも面白いからもう一度読み返してしまうけど、ブログなどの媒体にに感想書いていない人もきっといる。ネットだけの評価ではなく、見えない側だけどついてきてくれる人の存在も想像した方が楽しいじゃない、ね?