清水マリコ「ゼロヨンイチロク」

ゼロヨンイチロク (MF文庫J)

ゼロヨンイチロク (MF文庫J)

相変わらず、後の作品を読んでから前の作品をよむという変則的な読み方をしている人間が書いているブログです。続刊と言うよりも、世界観を共有した作品と言ったほうがいいのかなぁ。遠山遠美が登場している、と言う点については。

中身については、、、、現実と虚構がぐにゅぐにゅと入り交じっていて、自分の立ち位置が不鮮明、よくわからなくなる。母を求めるなんて書くと、とたんに内容が陳腐になりそう。こう・・・・明確なテーマや目的のある本*1ではなく、酔う小説。だから、私なりにこの小説を好きに切り取って理解してみます。

  • 読んでいて気になったのは153ページ。

私は、人との距離がうまくとれない。すごく近いか、それこそ時間の流れが違うくらいに、遠くにいるかしか出来ない

これ、時間を操作する能力がある相川美緒の台詞なんですが、自分の状況にぴったり重なる台詞で思わず沈思。

  • 遠山遠美をどう理解するのか。自己の存在に気付いて欲しい。母が探し求める《友達》。その結果として、現実の娘に会えない、自己犠牲。この作中に登場する脚本家であり、母の道代は、「自己犠牲」で、物語を書き続けなければならないと言う。Eの世界へ亡命する扉を開いてしまったから、そうではない、「恐怖を、希望へと変えていく義務。Eを裏切り、生きるための物語を、人々に伝え続ける義務」があると言う。227ページ。その結果として、自分の身体を消し、雲や霧のような存在(思念体?)に変貌してしまう。

これが清水マリコさんの口から語られてきた言葉だとすると、小説家というものの宿命を表しているのかな。うーん、深よみしすぎかもしれないが。小説家には、人生に満足していない人が多いとわかつきひかるブログでは書いていたが。遠山遠美の存在自体が、小説家としての母が、中学生時代に失ったから、その後も求め続けた《友達》。そこに解を見出したけど、そこにたどり着く過程で、本当に自分の利益のために辿り着く過程で、開いてしまったフィクションの扉。人は現実でしか生きられないけど、虚構に逃げ込むと楽になる。でも、それは母にとっては回避しなければならない。虚構に希望があるのではなく、現実にこそ希望があることを認めなければならない。母の道代は、こう考えている。
遠美の存在自体は、次巻の問題でもあるのかねぇ。ということで、ゼロヨンイチナナもすでに購入しています。今作は星4つで!

*1:ごめんなさい、本当はそうかもしれないが、私は底まで読み取る能力が欠けています。