山田詠美「蝶々の纏足・風葬の教室」


急に読み返したくなったので、本棚の奥から取り出してきた一冊。大学に入学したばかりの頃、仲良くなった女の子と山田詠美について語ったことがあったなぁ・・・と、懐かしいことを思い出しながら読んでいました。好きな小説や漫画について一緒に語れる彼女(三次元)が欲しいなぁと思いつつも、周りには存在していない。あーあ、なんであの子とは結局仲が良いだけで終わったんだろう。もうすでにあの子は結婚しているから、諦めるしかないんだけど。

蝶々の纏足・風葬の教室 (新潮文庫)

蝶々の纏足・風葬の教室 (新潮文庫)

さてさて、二編。

  • 蝶々の纏足

えり子は、「私」のことが、異性として、「好き」だったんじゃないか?
確かに、光彩を放つえり子にとって、灰色の「私」は、単なる引き立て役かもしれないし、高校生の時に、えり子が言い放った言葉はたしかに真実だと思うけど。
それでも。
それでも小さい頃のえり子ー寒色系、暖色系という言葉を覚えた頃ーにとって、《好き》の対象は、「私」なんだろう。「私」は、大人びていたし、子供とは違っていた。だからこそ、大人の気持ちを分かっていたつもりで生活していた。だからこそ、子供たるえり子の気持ちは理解していなかったんだろうなぁ。
高校生の時のえり子は、もうすでに分別がつく年頃だから、引き立て役としての「私」を認識していたと思う。
この小説は、「私」の視点で書かれているから、えり子の気持ちを直接覗くわけではないんだよね。だからなぁー、子どもでもない、だからといって、大人というほど熟していない「私」は、えり子を理解していなかったことの、子供時代のすれ違いに、最後に気づくしかないんだよね。あー、心に傷を負って生活せざるをえないのは、結局「私」なんだよねぇ。

大人の嗜好を持つ子どもが、子供の世界の中で、子供に対する《軽蔑》という感情を獲得して行く物語。
うーん、これがそのまま発達すると、《中二病》という立派な病気になると思います。自分だけが特別という万能感。あ、これ、蝶々の纏足でも感じることだわ。子どもとは思えない、思考言語を獲得している主人公*1が、自分のことを特別だと思っている感情。

*1:他の山田詠美の小説でも同じかな。