J.D.サリンジャー(著)/村上春樹(訳)「The Catcher in the Rye キャッチャー・イン・ザ・ライ」


キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

以前読んだ「文学少女と恋する挿話集3」に触発されて読みたくなったので購入。ここ数日、ずっと読んでいました。思えば、村上春樹作品(もちろん、純粋な村上春樹作品とは呼べないけれど)を読むのって、7〜8年ぶりじゃないか?昔はよく読んだんだけどなぁ・・・・なんか、村上春樹をたくさん読んでしまって飽きたことと、大学の時の知人(※友人と呼べるレベルではない)に、熱狂的な村上春樹ファンがいて、熱心に勧めていたことに対して少し引いてしまったことで、なんとなく遠ざかってしまった。別に読書好きを名乗るためには、流行りの村上春樹作品を読まなければならない必然性はないと思うんだけど。

サリンジャーは以前の野崎訳読んだことがあるんですが*1、読みにくくて、翻訳の頭の悪さに嫌になって放り出しました。私にとってはリベンジ戦とも言いうる一冊。村上春樹の文体は読みやすくて、最後まで読めました。この作品は、ホールデン・コールフィールドが自分の将来なりたいものを「よく前を見ないで、ライ麦畑の崖に進んでしまって、崖から落ちる子供たちを捕まえる職業になりたい」という台詞(293頁)に由来している*2

でも、この作品の楽しみ方は、ホールデン・コールフィールドの語りかけに反応することかもしれない。だって、311頁から314頁の台詞。

「話のポイントにしがみつく人はそんなにすきじゃないんだな」
「最初から最後まで話のポイントにがちがちにしがみついていた連中」

「なんていうか、いったん話を始めてみるまでは、自分にとって何が一番興味があるかなんてわからないことなんです。それほど興味がないものごとについて話しているうちに、ああそうか、ほんとはこれが話したかったんだって見えてきたりするわけです。そういうことってあるじゃないですか。つまり僕は思うんだけど、少なくとも誰かが何か面白そうなことをやっていて、それに夢中になりかけているみたいだったら、しばらくそいつの好きにさせておいてやるのがいちばんじゃないのかな」

話を「単一化、簡略化」するのではなく、「わき道」にそれる場合もある。

この小説は、ホールデン・コールフィールドの雑多なつぶやきに対して読み手が色々反応する小説だと思います。「おーい、ホールデン。お金少し使い過ぎじゃないか!」とか「アックリーだって別にいい奴じゃん。そんなにいうなよ、仲良くしようよ」とかね。「あー、わかるわかる!気まずくなるときってあるよねー」「バーの女、ちょっと俺もウザいと思うかも。でも田舎者の反応って同じで、俺が東京行ったら似たようなことしそうだ」とか、ホールデン・コールフィールドのつぶやきに自分自身も反応して、仮想のホールデンに対して話しかけた気分を味わって楽しんでいました。

あと、この小説が「少年の大人に対する反抗」と捉えられている理由が不明。

*1:

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

*2:そう考えると、「ライ麦畑でつかまえて」というタイトルは不自然だよな。catcherは、捕まえる人だし、「つかまえて」と表現すると、主人公が追われる対象になっているような印象も受ける。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」と表現することで、翻訳として正解。